豊川海軍工廠戦没学友慰霊式


豊川海軍工廠戦没学友慰霊式


慰霊式


 2020年8月7日(金)、豊川市諏訪墓地において、豊川海軍工廠戦没学友慰霊式を開催しました。
 今回は新型コロナ感染拡大に当たり、参加者を原則として会長・副会長・事務局長としました。例年お招きしている松操高等女学校の関係の方にも、同時の参加をご遠慮いただきました。 また、事前の清掃作業と平和公園の見学会については、東三河会としては行いませんでしたが、豊川市職員及びそのOBの校友の方たちによって、慰霊碑周辺の清掃作業が行われております。


 参加者 

東三河会役員 7名




会長挨拶 会長挨拶
 鈴木会長の挨拶で開始します。発声を控える観点から、今回は校歌斉唱は行いません。


 鈴木会長の般若心経の読経とともに、一人づつ合掌を行います。今回献花は行いません。
 八・七会の野本弘幸氏他1名にもご参加いただきました。

松操高等女学校の慰霊碑 松操高等女学校の慰霊碑
 専経同窓会が行っていた頃からのご縁で、松操高等女学校の方と合同で慰霊祭を開催しておりましたが、コロナの状況に配慮して、今回は同時参加をご遠慮いただきました。 松操高等女学校の慰霊碑も慰霊を行います。



集合写真 参加者
 10:30の黙祷サイレンに合わせて黙祷ののち、途中で合流した村田相談役が最後の挨拶を行い、その後、全員の写真を撮り、式の終了とします。


豊川海軍工廠とは

豊川市海軍工廠は、海軍兵器の生産を目的として、昭和13年に旧宝飯郡豊川町・牛久保町・八幡村にまたがって建設することが決定され、昭和14年12月に開庁しました。 機銃及び弾丸や艦船で使用する距離儀、双眼鏡、射撃装置などを生産し、機銃の生産に関しては日本最大の規模で、東洋一の兵器工場と言われました。
工廠の発展は、人口の増加や各町村の結びつきを強めることとなり、豊川市の誕生・発展に大きな影響を与えました。 しかし、昭和20年8月7日の米軍B29爆撃機124機とP51戦闘機45機による空襲により破滅的な被害を受け、2,500名以上の人が犠牲となりました。

(豊川市観光協会WEBサイト『海軍工廠』より引用)


立命館大学慰霊碑について

 昭和20年8月7日の空襲により工廠は壊滅しました。空襲の犠牲者の中には学徒動員された4名の立命館大学学生がいました。犠牲者のその後については、総務省のWEBサイトに記述があります。

 終戦を迎えた8月15日にも豊川海軍工廠内では戦没者の遺体収容作業が続行されていた。遺体は遺族に引渡されず、市内の千両町と諏訪町の山林に急造された海軍墓地に20~30体ずつ纏めて仮埋葬された。 また、豊川閣(豊川稲荷・妙厳寺)では、寺内の最祥殿に遺骨箱を安置し、朝夕の読経慰痍行事が行われ、その後四十九日の法要が営まれた。

 昭和20(1945)年10月、豊川閣裏(現 豊川市緑町)の広場では、豊川海軍工廠従業員報国団が全国より浄財を集めて戦没者供養塔建立の準備が進められ、翌年の9月23日供養塔竣工除幕式を行った。 以後8月7日の命日にはここで慰霊祭が行われた。しかし、2か所の海軍墓地は戦後の混乱により管理者もなく、また工廠幹部職員も生活に追われて戦没者を顧みる余裕はなく、供養は遺族や同僚達によりそれぞれに行われていた。 もうすぐ七回忌を迎えようとする昭和26(1951)年、呉地方復員残務処理部が主となり、愛知県民生部と豊川市役所が協力して海軍墓地の遺体を発掘し、遺骨を命日まで渡されることになった。 作業は6月1日に始まり、81か所の墓地から2,385柱の遺骨が収容され、遺友会合同慰霊祭後遺族に渡されたが、引き取り手のない200柱の遺骨は、呉の海軍共同墓地に葬られた。

(総務省WEBサイト『豊川市における戦災の状況(愛知県)』より引用)


豊川海軍工廠立命館大学慰霊碑

 遺体が発掘されたあとの千両・諏訪の両墓地には、後に数々の慰霊碑が建立されることになりました。 立命館大学慰霊碑は、前述の4名の犠牲者の慰霊の為に、昭和51年に諏訪墓地内に建てられました。慰霊碑の背面には末川名誉総長の追悼文が刻まれています。 下の写真をクリックすると別ページで拡大画像が開きます。


末川名誉総長の追悼文

末川名誉総長の追悼文







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